Cool Japan:Avant-garde Calligraphy works 記念講演

Cool Japan:Avant-garde Calligraphy works 記念講演

はじめに

この度、香港大学美術博物館に於きましてCool Japan:Avant-garde Calligraphy works を開催できましたことを心より感謝いたします。

香港大学は、かつて中華民国を成立させた孫文も卒業生した、歴史的にも由緒ある大学です。また、2009年、2010年連続して、東京大学をもおさえてアジアの大学ランキング1位獲得という快挙をなしとげ、まさに香港人の精神的支柱的としての存在です。これからのアジアの文化を牽引する殿堂とも言えるでしょう。
香港には敏求精舎のMin.chin Societyコレクターがおられて、50年にもわたって展覧会等の活動を続けております。これらの方々も、香港大学と同様に、香港の芸術を牽引しているといえます。このように香港には、志の高い方々が多数おられることに敬意を感じます。
香港がたどってきた過去の歴史の中で、香港の方々がかたくなに守ってきた文化、それはまさに香港人のアイデンティティであると思います。あらゆる状況の中で強く、しなやかに生きてこそ、の美しさがそこには存在します。そしてまた、そこには、ジャパンクールの精神の有り様に通じるものがあるように思えるのです。

Japan Cool という感性

Japan Cool という表現は、2002年にアメリカのジャーナリスト、ダグラス・マッグレイ氏(Douglas McGray)が米国の外交専門誌「Foreign Policy」で発表したもので、アニメや漫画などのオタク系文化と呼ばれるサブカルチャーを日本の Cool な文化と表現したものです。
日本では歴史の節目節目にサブカルチャーといったものが起こり、ある意味、それが成熟して日本文化を形作ってきました。
中国 明の時代、日本では室町時代に東山山荘に隠居した足利義政は遊興の果てに「何か珍しき遊びやあるべき」と、当代一の文人の能阿弥にたずねて、茶の湯を勧められたといわれています。その頃、茶の湯は「淋汗茶湯」といわれ風呂と喫茶をあわせた、決して上品とは思えない楽しみで、まさしくサブカルチャーでした。

ジャパンクールな平明で明るい光琳派と云われる絵をご覧にいれます。

Japan Cool とは洋の東西を問わず、国や時代の垣根を越え、あらゆる文化を寛容に受け入れることでした。イスラム教やキリスト教のような一神教などの偏狭な規範を持たず、日本古来のアーミティヴな神教と仏教に同時信仰する等、神仏混合は融通無碍に現世利益につなぎ、破綻も起こさず清雅に生活するのが日本人のスタイルだと私は思うのです。
日本人は外来の文化をも柔軟に受け入れてきましたが、それらをそのまま取り入れるのではなく、その中から日本人のあるべき精神世界を作り出す才能があります。

今回のこの展覧会においても、中国からの書や水墨画の世界と日本人のアイデンティティが見事に調和し、新しい表現が形作られていることを、皆様に是非感じていただきたいのです。これら前衛書家の作品に表された世界は、まさにクール、清雅な日本人の価値観であると言えましょう。

日本に影響を与えた中国の文化

日本は、きらびやかな唐の文化で目覚めました。圧倒的な力で迫ってきた国際的な文化です。
白楽天の詩を暗記するのが平安時代の貴族のたしなみでありました。その白楽天の詩と和歌を並べて和漢朗詠集が編集されました。

唐三彩が舶載され、緑、黄、碧などの彩色の華麗さによって、黄金の唐文化を輝く色彩で直に見ることができたとき、土色の素焼きの食器しか知らない日本人は、どんなに讃嘆したことでしょう。
そして日本人は、果敢にも唐三彩の日本での再現を試みました。点数は多くありませんが、稚拙な奈良三彩といわれる三彩陶器が今に残されています。

日本の古代国家が制度として成立するのに唐帝国は決定的な影響を与えました。
輸入された国家制度は日本的に変化しましたが、貴族の支配する制度は徐々に行き詰まりを見せ始めました。

中国では確かな国家運営のもと、技術の完璧さ、人間性を文化とした宋の国が出現いたしました。まさに中国のルネサンスの幕開けでございました。
日本人は宋の文化、絵画の牧渓、馬遠、夏珪に接し、その精神性の高さをすぐ感じ取りました。宋の絵画は日本人の精神文化の規範となり、今も連綿として続いております。
鎌倉、室町の禅、宗教精神は、この絵画の視覚化によって完成されたといえましょう。

宋帝国の実像は日本ではほとんど知られていませんでしたが、鎌倉幕府は武士の精神文化を固めるため、禅の高僧を招いて、先進的な大学を鎌倉に創建しました。宋の文化、政治のあり方は、禅宗を介して日本に伝えられのです。

宋で深化した禅宗の思想は、本質的に日本の武士の信条にあっており、北条時頼、時宗等、政権のトップが帰依し、鎌倉幕府の保護を受けて発展しました。
また、陳和卿は日本に渡り鎌倉に住み、源実朝のために唐船の建造をしました。さらに、重源と共に東大寺の再興につくしました。身を投じて、文化を伝えた宋人がいたのです。

宋の高い精神文化

日本に伝えられた科挙の高等文官試験に合格した超エリート、士大夫は鎌倉、室町、桃山、江戸の800年に及ぶ日本人の尊敬する知的世界であり、精神の拠り所でありました。
北宋の知識人、士大夫の欧陽修、司馬光、王安石は人間の理想像でありました。
1060年頃に作詞された欧陽修の「日本刀の歌」は、日本が第一級の知識人に認められた喜びと、武具にすぎなかった日本刀に強い精神性を与え、今に至っております。
憧れの余り、自己の姓名を中国風に三つの漢字で現すのも流行したりしました。

南宋の時代(1127~1279)には景徳鎮などの陶磁器が世界的にも高い商品価値が認められるようになり、書や絵画とともに、多くの美術品が日本に輸入されました。
日本の室町文化に引き継がれたそれらの文化は、日本国内で愛でられ、日本人の精神に根をおろし、独特な美意識へと変貌していきました。

この宋磁は、中国陶磁器5000年の歴史の頂点に立つものであります。日本では神品と讃えられております極めて洗練され、高い格調と透徹した美を備えております。

宋の民間の庶民の物といわれる民間の窯、磁州窯の瓶をお目にかけます。
宋磁に絵等を描いたものは、士大夫の傍らに置くものでないと言われておりましたが、この爽快な牡丹の葉の線を見てください。北宋の民間の人々のセンスの高さに驚くばかりであります。
これは100年近くパリの貴族が所有していた有名な宋磁であります。

その深い宋文化の神聖さに日本人は打ちのめされたようです。
そして、宋の士大夫、高級官僚が愛した青磁、白磁を見ることで、宋の精神文化の高さをいやというほど見せ付けられました。
日本の窯で、宋の青磁などを再現しようという試みは長く行われませんでした。
なぜなら、神品といわれる宋磁を真似る事を、恐れ多いと思ったからなのでしょう。

禅から派生した日本の文化

また、日本では宋から将来された禅から派生して、生花、茶、能、狂言などが芽生えました。
日本では、無装飾、不完全の美を尊ぶ「わび」の意匠が茶の湯の世界を媒体として深められていきました。
水墨画においても、中国の水墨画は写実を決して離れませんが、それに対して、日本の画家は写生というよりも、むしろ精神世界をアイディアで表現しようとする傾向があります。
日本人が求めた精神性のある独自の美意識と、中国人の表現した美意識と、同じ東洋人でありながら、方向性がまったく違っています。

下克上の戦乱の中で、日本のルネサンスとも言える桃山時代には、沢山の文化が輩出してきました。
日本の陶磁器が素焼きの“かわらけ“から脱皮したのは桃山時代です。
織部、志野等の新しいスタイルは、約70年の間創作されました。
日本の歴史の中で、唯一光り輝く70年でございました。

宋の政治と日本の現状

宋の政治のあり方と現在の日本とは良く似ております。
激しく戦った隣国遼と平和条約、_淵の盟を結び、100年の平和を維持しました。これは日米同盟のあと、60年の平和を享受できたことと似ています。
さらに、軍隊を軽蔑していること、戦う意欲が欠如していることも、現在の日本のようです。
また、中国の太子党のような例はなく、門閥や地縁でなく試験によって高級官僚が選ばれました。宋によって刷新された科挙試験に合格した文人官僚で、国内を統治したのです。高等文官試験・科挙は、暗記力の競争でした。日本の東大等の入試競争とよく似ています。
さらに特筆すべきは、この時代は、中国の蕩々たる歴史の中で、最も言論の自由な時代だったということです。
それを裏付けたのが、印刷業の成功です。メディアの力を実現させた起業家がいたのが、この宋の時代でした。
そのほかにも日本の現在と似通っている点は、農地の税を上げず、灌漑設備に投資をしたこと、流通、経済をもって国の基本としたこと、などです。
日本も貿易に国の運命を託しております。

残念なことに、宋は、頭脳明晰な官僚達は派閥を作り、国の運命より、自分の派閥の極大化を企図しておりました。
日本の国も、民主党と自民党、その他が入り乱れてエネルギーを摩耗させております。
日本国は外交に際し、知性の高い人の声が小さすぎます。
刻々と迫る、圧力を感じながら、行動を起こそうとする人はおりません。
今の日本には一人の文天祥もいないのです。

世界美術の宝といわれる韓煕載夜宴の図を見てみましょう。

宋に滅ぼされたこの南唐の絵に、人々は、文民政治、経済流通による国作り等を学び、世界に先がけて施行したのです。宋の政治の手本になったというわけです。
教養に満ちた南唐の官僚、洗練された女性、声も聞こえず、静かに沈んだ宴です。時を待たず、隣の大国に滅ぼされるのを感じておりながら、一夜の宴をはる人々、今私の住む国ではないかとの思いが胸をひたします。

皇亭山の下に 青き煙(のろし)起こる
宰執は相看て 酔い酣(つぶ)れしに似たり
殿上の群臣 黙して言わず
(汪元量―湖州歌)

近代ヨーロッパ精神の脊髄となるギリシア文明の末路のようにならねばよいが、と思います。
ローマ軍を目前にしていながら、党派の争いに明け暮れ、論のための論を繰り返すギリシアの知識人たちは、結局、国を亡ぼし、こぞってローマに移り、ローマ人の子弟の先生を勤めることになりました。
日本はどうなるのでしょうか。
香港の人々の智恵をお借りしたいものです。

文天祥は裕福闊達な生活を楽しむ大家の坊ちゃんであったが、21歳で科挙試験を首席で進士になっています。
41歳にして亡国に向かう南宋の宰相につき、単騎、モンゴルの陣にのりこみ、宋王朝の中国支配の正統性を説きましたが、受け入れられませんでした。
その後、各地のゲリラを指揮し、宋王朝の再興をはかりましたが、モンゴル軍に捕らえられました。
この虜囚の時に作られた正気の歌が、明治維新に向かって戦う若いサムライ達の間で歌われ、明治革命の精神的原動力となりました。
モンゴルの皇帝フビライの直々の説得にもかかわらず、降伏を承知せず、斬られました。享年47歳。
このことは、日本人の心に深く沁みてきました。
文天祥以後の日本では、武士・若者は戦いの場で美しく死に向かうことができました。
さらに、経営者、商店主も身を捨てて、自分の職場に殉ずる気風が定着したのです。

Japan Cool とは

ジャパンクールとは、生と死を美ではかる、命といえども美意識と心の清潔の下に位置させるものです。伝統とコンテンポラリーな感性の融合をはかり、サブカルチャーを格調高い文化に昇華させる知恵と感性です。
それを支えるのが、相手の立場を私の利害を超えて思いやる、寛容の身の処し方であります。外来の知見を受け容れ、渾然一体たる一如一体を創り出す和の精神でもあるのです。
このようなジャパンクールが世界の人々に理解され、国際外交に携わる外交官、政治家の心の基礎に据えられることが、日本のような小国が存続できる可能性だと思います。
アジア第一の知性の府、香港大学の皆様のご理解ご支持を重ねてお願いします。

自分の生き方を求める美学“Japan Coolモの感性 が、世界のスタンダードになれることを、願ってやみません。